まとめ
以上の医師会の発祥と変遷を纒めると、わが国の医療は、有史以来漢方の独り舞台であったが徳川の終わり頃から蘭学が興り、明治維新以後は、文明開化を目指す新政府が漢方を排し、西洋医学の採用を決定した。医学医術を家伝にして閉鎖社会を築いていた漢方の時代には、医師会を必要としなかったが、明治以後洋方医が増加するにつれ、医学医術の研鑽や情報の交換や、人類に対する医師の使命を遂行する為に医師の組織作りがなされる様になった。
その結果明治39年に「医師法」と「医師会規則」が制定され、それに基づいて明治40年に大阪市医師会が、大正2年に大阪府医師会が、そして大正12年に日本医師会が設立された。
その後、太平洋戦争に突入した日本は、戦時非常態勢の下に、昭和17年「日本医療団令」を公布し、従来の医師会を解散し、強制の日本医師会と大阪府医師会を設立して、医師を戦時態勢協力医療隊員としてその下に配したのである。そして敗戦、国家の激変の中で医師会も昭和22年、全国一斉に社団法人新制医師会として再出発した。
社団法人大阪市南区医師会の誕生日は、大阪府知事の設立許可がおりた昭和22年11月15日である。そして、昭和63年2月13日に南区と東区が合併して中央区になり、南区が消えた為に南区医師会の名称を「大阪市南医師会」に改めた。
今や日本の医療政策は、地域医師会の協力がなければ成り立たない時代になっている。昔は、永田町天皇とお茶の水天皇が話し合って事を決めた時代がないでもなかったが、今はそんな幻を追っかけている時ではあるまい。今や、地域の医師と地域住民の信頼関係の中から湧いてくるパワーで、国民医療の進路を選ばねばならない時であり、地域医師会の社会的使命は非常に大きい。
おわりに
「医師会の古い頃のことを書いてください」と言われて、何気なく肯いてからもう1年が過ぎた。昔話は話すのと書くのとは大違いで、話すのは朧気ながらでも記憶を頼りに辻褄を合わすことが出来るが、書く方は、人の名、ものの名、年月日、場所、数字、関わり、繋がりなぞの記憶が正確でなければ、そこでペンが止って仕舞う。私はもの覚えが特別悪い上に、近頃脳みそが老化して、古いレモンを搾っても種か滓かしか出ないように、一行書いてはひっかかり、資料を繰ってはまた進むという具合で、どうやらこうやらゴールインして、責任を果した解放感に一先づホッと一息した所である。
原稿を書き上げて考えさせられたことであるが、「医師会」の歴史は、明治の始めからとしてもたかだか120−30年位のもの、それに較べて「医師」は、始まりを仮に古事記や日本書記の記す所に求めたとしても1500年の歴史を積んでいる。その歴史の底に脈々と流れて変わらないものがある。それは「医は聖職」なりとする医師の自覚である。神は人類を病いの苦しみから救い出す任務を医師に託された。その名誉と誇りにかけて医師は学び、自らを磨き、人の信頼の上にたたねばならないとするヒポクラテスの誓いを今も心に受け継いでいる。歴史をふり返ってみると、「医師会」とは、その誓いのもとに集った医師達の集団であることが、よく肯けるのである。医師がその誓いを見失った時には医師会は、ただの業種組合でしかなくなる。
原稿を書き終って私の心に残ったものは、その様な思いであった。
はじめに書いた様に、今、未曽有の高令・少子化の時代を迎えて、日本の医療保険制度は経済破綻の危機に直面している。こういう時にこそ医師会が、而も地区の医師会が、住民と共に声をあげねばならないと思う。
最後に資料の収穫にご協力下さった方々、特に、日本医師会図書館の従業員の方々にお礼を申し上げ、責を果すこととする。
(平成9年9月11日)
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