日本医事史 抄

新制医師会2

 

大阪府医師会は、昭和21年11月19日臨時総会を開き、支部毎に会員50名に1人の割で「医師会改組準備委員会」を設けた。委員の数は183名で、南区医師会からは藤原哲先生らが委員になった。協議を重ね、翌年1月24日には準備委員の中から、吉津渡、藤原哲、水野広、野中幸夫、井関健夫、桜根太郎、岩井弼次、西起三郎の8名を実行委員に選び、日本医師会と連携しながら新制医師会設立の歩みを進めた。つづいて昭和22年5月29日の臨時代議員会に於て、会則と新役員を定め、全国医師会のトップをきって新制大阪府医師会が発進することになった。併し、その後GHQの公職追放の通知が届いた為に、改めて新役員を選出して、昭和22年11月1日、新制「社団法人・大阪府医師会」の設立が許可されたのである。

新制大阪府医師会初代役員                       (会員数 2,190名)


会 長 菊池米太郎
副会長
吉津 渡
       
理 事 山川強四郎 野中幸夫 刀山万造
  藤野久三郎 宮田  訂 三羽 兼義
  桜根 太郎 景山 万治 島田 吾一
       
議 長 西起 三郎
副議長
藤原  哲

南区医師会は、大阪府医師会と同じ時期に、府医改組準備委員会草案の「郡市区医師会々則準則案」を参考にして、定款、諸規定、役員等を定めて、昭和22年11月15日に「社団法人 大阪市南区医師会」を設立した。

新制大阪市南区医師会初代役員                       (会員数 60名)


会 長 北川義太郎
副会長
三井 欣蔵
       
理 事 宇野菊三郎 宇野菊三郎  
  富永 文次 堀江 貞彦 飯島 近治
       
監 事 長谷川信男 田中彦太郎  
       
議 長 藤原  哲
副議長
南  義忠

その当時の様子を、南区医師会25年記念誌の特集"創立当時の思い出"に長老方が書いておられるので、その幾つかをここに転載せて頂き、当時を偲びたいと思う。

 

"昭和22年ごろの思い出"                          1班 三井 欣蔵

 昭和22年と言えば自由民主主義の新風が澎湃して日本の津々浦々に浸透してきた近代医師会の黎明期であるが、わが南区医師会に於ても初めて民主的に会長公選を実施することになり、それへ公明正大な方法でFさんを担ぎ出して成功した思い出がある。

 Fさんは誰に推薦されなくても自分の力で現在の地位につかれた人であるが、彼の才能を一般会員がまだ知らなかった時期に、先づ最初に南区医師会長に当選する様な発起し工作したのは、当時共産党員として高名のTさんであった。既に将来の大物の片鱗を覗かせていても、まだ一般会員の認識がなかったFさんを、南医師会長に押し上げ、磨きのかかってないダイアモンドを玉石混交の中から識別して掘り出した。

 保守党のコチコチであるFさんと、共産党シンパの大物Tさんとの結びつきが何となく面白くて、私にとっては何時までも忘れられない思い出の一つになるであろう。

 

"日記から抜粋"創立当時を偲ぶ"                      2班 薄 政太

昭和22年1月1日 54才の齢を重ねる。家族づれで生国魂神社に初詣で、彼は職員達を招いて新年会を催す。
1月18日
文化会館で南支部総会開催、医師会改組に就て支部長の説明あり。又、新設の気運に向いつつある南区医師会設立準備委員の選挙あり。藤原、荒木、高洲、宇野、河村の五氏当選。 
1月20日
苦味丁幾を燗して飲む。
2月11日
紀元節、国旗を掲揚する。それも進駐軍の許可の下にである。ところが、国旗を出している家は稀である。日本人は国旗を忘れたのか。
4月 9日
南区医師会長に推されたが辞退した。
4月29日
天長節、国旗を掲揚する。町内を見渡すも何処にも国旗は見えず。酒精が手に入ったから「ヨントリー」を作る。酒精を水で割って、大豆の煎ったのを入れて臭気を抜く。これが「サントリー」に非ずして「ヨントリー」である。
8月27日
京橋で闇煙草を買う。コロナが45円である。50円渡し、5円釣銭を受け取ろうとした途端、警官が来たので闇屋の女の子は一目散に逃げ出し、僕は釣銭を取り損ねた。
10月30日
煙草の値上げを前にして何処にも煙草を売っていない。それに段々高値になるので禁煙しようかと考える。
11月28日
新機構配給医薬品査定委員なるものに選出され、少々迷惑。
12月10日
裁定委員に選出される。 
12月31日
来年から煙草を止めようと思う。今日が最後と思って盛んに吹かす。

                                                      

"私の会長時代の想い出あれこれ"                    5班 藤原 哲

 戦後天王寺、南、東区が合併して府医師会の一単位として運営されたが間もなく各区毎に分割され、大阪府医師会南区支部が出来た。その初代支部長に私が仰せつかった。そして土佐堀のキリスト教会堂の中の府医師会に度々通い、西起三郎議長の下で副議長をつとめたが、これが私の医政への縁の始まりで、間もなく支部長をパージで追放となり、翌年追放解除になって南区医師会長に就任したというまことに複雑な占領下時代の医師会運営であった。当時の医師会長は占領軍司令部から呼びつけられ、麻薬取締の厳格な指令と指導を受けたりで、今日の自由な医師会の姿を見ると当時が嘘のように想えるのである。

 

"偶 感"                                    10班 下村 忠亀

 昭和22年9月6日は南区医師会員としては最も記念すべき日である。この日大宝小学校講堂で新制南区医師会創立総会が開かれ、席上社団法人南区医師会定款が、北川先生司会の下に遂条審議されて、満場一致決定した。これにより会長北川幾太郎先生以下の役員が決定し、同年11月15日法人登記を完了してここに「社団法人大阪市南区医師会」が発足したのである。初期の会員数は60名前後であったが、昭和40年代には200名を越す盛況になった。

 

"回 顧"                                  10班 宇野 菊三郎

 南区医師会が発足した当初の模様を書こう。当時上町地区は戦災から免れたので、多士済々であった。その中でも前から雄弁家で知られていた人が立候補するので、下町の方からも誰かを立てようとしたが、仲々勇気のある者がいない。突然長谷川耳鼻科氏が来て対抗馬として誠に恰好の人がある。大宝寺町で開業している北川幾太郎君で、医政も分るし雄弁家だということだ。当日選挙場の桃谷小学校で、名刺を配って熱心に北川推薦の先鋒を担いでいるのが何と木崎正美君だったのには驚いた。選挙の結果は初代北川会長に決定した。副会長は三井君で、理事には飯島君という名理事が誕生する。

 



(目次)