日本医事史 抄

医師法成立以後3

 

大阪府医師会・南医師会の誕生:

さて、わが南医師会の起源であるが、大阪府医師会の年表に、明治30年12月、大阪市内東、西、南、3区の医師が団結して「大阪医師組合」を結成、事務所を東区淡路町の興医倶楽部に置く。明治32年2月、大阪医師組合は北区の医師の加入により、全市結合の目的を達し、新たに「大阪医会」と改称し、規約を改訂するとある。これが最も古い記録であろうと思う。その後明治40年に設立の法定大阪市医師会は、大阪医会がそのまま移されたものであろう。  

明治21年に誕生した大阪市には大正14年まで東西南北の4区しかなかった。その後、大正14年に13区になり、昭和7年には15区に市域を拡大した。大阪市医師会もそれと共に会員が増加しているが、夫々の区に於いて医師会がどの様に組織化されていたのかは明らかでない。大阪府医師会の年表に、大正13年10月10日 北区医師会発会式、大正14年7月17日、住吉区医師会発会式、昭和3年2月12日 東区医師会設立などの記録を見るが、おそらくそれ等は、任意につくられた親睦団体で、所謂組織的な医師会活動は、大阪市医師会が全区を統括して行っていたものと思われる。

併し、会員の区医師会設立の気持は止み難く、昭和10年頃に原玄一郎ら29名を発起人とする「区医師会設立期成同盟」が生れた。彼らは大阪市医師会に区医師会の設立を求め、大阪市医師会は臨時総会を開いて「区医師会設立案」を可決した。時の大阪市医師会長は南区医師会の大先輩・高須謙一郎先生であった。この様にして念願の区医師会設立のレールが敷かれたが、その後間もなく日支事変が勃発し(昭和12年7月7日)、翌年4月1日には国家総動員法が公布されて、日本国民は一挙に臨戦態勢に向って総動員される所となった。それから

昭和14年 第2次欧州戦争勃発。
昭和15年 大政翼賛大阪医師大会。
昭和16年 医薬品の生産及び配給の統制。
  島之内署管内医師救護団結成。
昭和17年 日本医療団令公布。
  改正医師会令公布。

と事態が進転し、改正医師会令により、大正12年創立の日本医師会を解散、日本医療団総裁稲田龍吉を官選会長とする「新正日本医師会」がつくられた(昭和18年1月22日)。

大阪府に於ても改正医師会令により「改正大阪府医師会」が強制設立され、大阪市医師会を解散し、改正大阪府医師会の下に支部をおき、支部長28名を大阪府知事が発令した。改正大阪府医師会々長には菊地米太郎を厚生省が任命した。この様にして医師会も国家の「戦時非常態勢」の中に組み込まれたのである。

昭和17年に入ると日本軍は、国外各地の戦場で米軍の反撃をうけて敗退し、4月18日には日本本土(東京、名古屋、四日市、神戸)が始めて米軍機の空襲を受けた。昭和18年9月には日本と同盟国のイタリアが無条件降伏、昭和19年7月7日、日本軍サイパン島で全滅、8月10日、グワム島で全滅、そして遂に昭和20年3月13日、大阪市の中心部が米軍機の大空襲を受けた。ボーイング29が次から次へと果てしなく翼を列ねて飛来して、雨霰の様に爆弾を降らせる。屍を滅多切りにする様な悪鬼の仕業であった。一夜明けて 大阪市内は、見渡す限りの焼野原になっていた。空襲はその後も、6月1日、7日、15日、25日と波状に続く。8月6日、広島に原爆投下、8月9日、長崎にも原爆投下、そして8月15日突然、ラジオの電波を通じて日本全国に「終戦の詔勅」を読む天皇の玉音が伝わった。日本帝国無条件降伏の日である。それは日本国民が建国以来且て何人も体験したことのない屈辱と苦難の日々の始まりであった。



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