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医師法の成立に基づき大阪では、明治40年3月に「大阪市医師会」を設立した。事務所を東区淡路町の興医倶楽部に置き、会長に清野勇、議長に吉田顕三を選び、11月21日大阪ホテルに於て盛大な発会式を挙げた。
次いで大正2年7月21日、医師法に基ずく「大阪府医師会」を設立した。初代会長・緒方正清、副会長・竹内茂、議長・石上亨、副議長・高安道成である。
日本医師会の誕生:以上の様に全国各地に府県医師会が設立されるに従い、組織活動強化の為に、地域連合体としてのブロック医師会を結成しようとする動きが起った。中部、近畿、中・四国を合わせた「関西連合医師会」、関東甲信越と東北を合わせた「関東東北連合医師会」そして「九州連合医師会」が結成され、更にこれらの連合医師会を統一する全国組織結成の機運が高まり、大正3年3月「日本連合医師会」が設立された。併し、「日本連合医師会」は名のみで、全国医師会の期待を裏切り、大阪府医師会に於ても大正4年2月27日に臨時総会を開き、日本連合医師会脱退を決議した。
丁度この頃、暫く鳴りをひそめていた医業分業問題が、「分業期成同盟」を掲げる急進派薬剤師によって再燃し、政界やマスコミに医業分業実現を働きかけてきた。これを阻止する為に医師会は、「日本連合医師会」に変わる強力な全国組織をつくって対抗しようとする気運が高まってきた。
医師会はかねてから、世界的な細菌学者で男爵、貴族院議員北里柴三郎を医師会長に擁立しようとしてきたが、内務省伝染病研究所々長の氏は、官職を理由に医師会の要請を拒んできた。 併し、大正2年に伝研の管理が、内務省から文部省に移ったことを理由に所長の官職を辞した北里は、心機一転、医師会の要請に應え、全国医師の陣頭にたつ決意を固めた。直ちに全国道府県医師会会長に檄を飛ばし、大正5年11月11日「大日本医師会」創立大会を開き、「医業分業は、本邦の民族習慣に適合せざるのみならず、公衆衛生上に危害あるものなれば、法律を以て強制すべからず、本会は深く国情に鑑み、極力之に反対する」との決議を採択し、政府に建議して急進薬剤師の動きを封じた。
斯くして「大日本医師会」が発進したのである。
明治39年制定の医師法はその後、実施経験や時代の推移により、明治42年に第1次改正、大正3年に第2次改正、大正8年には医師会の強制設立と医師の強制加入を骨子とする第3次改正を行った。
それは、医師法を制定した頃は、全国の医師数35511人の中、医学校卒業者が8657人(24.4%)であったが、大正7年には、全国医師数46107人の中、医学校卒業者が21826人(47.3%)と半数を占める様になり、医師の質が格段に向上したことと、国の医療行政遂行上、医師会は重要な役割を担う公共機関であることが認められる様になった結果である。
第3次医師法改正に伴い、従来の「医師会規則」は廃止され、新たに「医師会令」(勅令)が公布された。それは
(第1条)医師は都市区医師会を設立すべし、都市区医師会は道府県医師会を設立すべし
(第3条)本令に依り設立したものに非ざれば、郡、市、区、道、府又は県の文字を冠する医師会の名称を附することを得ず
以下26条よりなる。
又、「医師法施行規則」の一部を改正し、従来、「警察犯処罰令」で取り締まられていた医師の應招義務に関する規定が「医師法施行規則」に移されることになった。
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(目次) |
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