日本医事史 抄

江戸時代

長崎で痘瘡牛の痂皮を用いて成功した楢林宗建から、京都の日野鼎哉(ていさい)のもとに種痘成功の報せと、8粒の痘痂が届いた。
日野鼎哉はシーボルトの鳴滝(なるたき)塾で楢林宗建と同門の間柄である。鼎哉は宗建の痘痂8粒の中、7粒を7人の孫に植えつけた。併し、発痘した者は一人も居なかった。
落胆の底から気持をたて直して鼎哉は、残りの1粒を弟子の桐山元中の息子・万次郎に植えつけた。
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7日目、万次郎の腕からわずかににじみ出ている膿を鼎哉の孫の3才になる朔太郎と、元中の姪にあたる8才の女児に植えつけた。そして7日目、二人の子供の腕からすくいとった液を、16才になる鼎哉の娘の腕にすりつけて種つぎをした。

笠原良策が日野鼎哉のもとを訪れたのは丁度その頃である。笠原良策は文化6年(1809)、福井の医師笠原竜斉の子に生まれた。15才で福井藩医学所済生館に入り漢方を学び、20才で江戸に出て磯野公道について古医方を学び、23才の時福井に戻って開業をした。27才の時、山中温泉で大武了玄という蘭方医と知り合い、啓発を受けて、蘭方への志を絶ち難く、京都の大蘭方医と称されている日野鼎哉の門を叩いて入門を許された。蘭方を学ぶことが出来る歓びに燃えて良策の勉学ぶりは真剣そのもので、忽ち頭角を現した。

日本の全土に天然痘が焼結猖厥し、人々の悲惨な姿を目(ま)の当りにしてきた鼎哉と良策師弟は、外国では種痘を行って天然痘の悲劇を防いでいることを知り、日本にも種痘を普及させねばならないと一念発起した。それには第一の難関が痘苗の入手である。長い間、思い悩み、そして遂に長崎の宗建から届いた痘痂を用いて鼎哉の16才になる娘の腕に種痘の花を咲かせることに成功したのである。彼等は手をとり合い、肩を震わせ、「花が開き申したぞ、遂に花が開き申した」と歓喜した。鼎哉と良策は役所の許可を得て、京都新町三条北に種痘所を構え、種痘をひろめる態勢を整えた。

長崎から京都の鼎哉のもとへ痘痂が届いた報せは国内に届いていた。大阪の緒方洪庵 もそのことを知り、自宅に近い道修町4丁目で開業している日野葛民(鼎哉の弟)に同行を願って鼎哉を訪れ、分苗を懇請した。嘉永2年(1849)11月1日のことである。鼎哉と良策は、11月6日、分苗のために一人の種痘をおえた子供を連れて大阪に赴いた。良策は大阪に於ける「分苗の儀式」を「白神記」に克明に記している。

"白神"は、当時"Vaccine"を"はくしん"と読んだことによるもので、良策は自らを「白翁」と号している。白神記には当時の世間や医師の様子がよく描かれているので、一部を写記してみる。文章は自分流の現代文に書き改めた。

 良策から福井藩医半井元冲(なからいげんちゅう)への書簡より「―(略)―折節、日野葛民、緒方洪庵が、伝苗致し下さる様、懇々と願って大阪から来ました。葛民も洪庵も不凡の人であるが、白神の経験は少いので、万一にも絶苗することがない様に要愼をして、師の鼎哉と共々、その門人の西村啓蔵の子供(1才)と其母、其婢を連れて下阪しました。鼎哉は弟の葛民宅に止宿し、自分は心斎橋筋の備前屋に宿をとりました。翌朝、迎駕にて道修町5丁目の除痘館に集まりました。「分苗の儀式」は、全員礼服を着用、正座に新薦(しんせん)(新しいむしろ)を敷き、神座を設け、神酒、鏡餅、洗米を供え、その前に良策、其次鼎哉、次洪庵、次葛民、次医輩並に門人等が着座しました。自分の席が師より上位にあるので辞退しましたが、君命を受けた伝苗の儀式であるから、師弟の礼に及ばないとのことで赦汗(たんかん)致しました。種痘は、西村啓藏小児市太郎、母藏子、洪庵二児、葛民一児、良策二児、緒方一児の8人に行い、4日後の11月10日に検べたら、全員善感しており、安心仕り候」と詳細な報告をしたためている。



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