日本医事史 抄

江戸時代

京大阪での大役を果した良策は、故郷福井への痘苗を持って帰路につくことになる。その痘苗は、種痘がうまくついている幼児(2名)と、種痘をしていない幼児(2名)を連れて、道中で植えついでゆく方法で運ぶのである。周到な日程の計画をたてねばならない。拒む親たちを説得して、同行してくれる幼児を探さねばならない。冬の北陸路への旅である。誰もが旅だちをおし留めたが、種痘に命をかけた良策の決意を動かすことは出来なかった。 photo8

嘉永2年(1849)11月19日、良策は京都を発った。幼児4名、両親8名を併せた13人が言いつくせぬ困難を凌いで、京都―大津―米原―長浜―木之本―朽ノ木峠を越えて福井まで6日間の旅をする。その状況は吉村昭著"雪の花″(新潮社)に見事に描かれている。

殊に最大の難所とされる朽ノ木峠は、木ノ本から上り六里(24キロ)、下り虎杖(いたどり)まで二里(8キロ)の道程を、六尺(2メートル)以上の雪が埋めている。笠と蓑(みの)と雪靴を身に纏い、提灯をかざして、倒れてはならないという気力だけで這う様に進む一行の有様は、とても人間業とは思えない。その件(くだ)りを描く吉村昭の筆致は、大舞台の夢幻を見る様である。

11月24日に福井の町に帰りついた良策は、翌25日旅の疲れを休めもせず直ちに福井城下で種痘を始めた。その良策のもとに大阪の洪庵から次の礼状が届いた。
「先頃は痘分苗の儀、寒冷の時節態々のご下向、ご苦労千万に存じ奉り候。ご下命の通り、子供を集め、痘苗を絶やさぬ様に種継ぎをしていますからご安心下さい。お陰様で万民救助の基を開くことが出来て、如何許りか有り難く存じ奉り候。大兄も近々ご帰国の趣、寒天のご旅行、別してご苦労の御事と存じ奉り候。軽微の至ですが、御銭別の印迄に沙列布(サレップ)」(註15)三ヶ呈上仕り候。(略)」

 その後大阪では洪庵の奔走により、日本で初めての官許の除痘館が北浜に設立された(1858)。
新除痘館の壁に洪庵は次の一文を掲げている。「寒暑を顧みず、雨雪を厭わず、身を砕き心を労し、究苦の時には自ら米銭を費やせることありと誰も、一銭の利を私せしことなく、孜々沒々として勉強せしこと十有二年、勲功積んで今日の大成を得るに至れり、願わくば後耒の諸子、越前候の恩徳と、良策、鼎哉の厚恵を忘れることなく、寡欲を旨として仁術の本意を失わず、その良志を嗣ぎ玉え」。
以て往時の医師達が天職を全うするために身命をなげうつ気概に心打たれて、種痘の記述に頁を費やした次第である。

 その頃日本は、アメリカ使節ペリーの浦賀来航(1853)を契機に、米、英、仏、露、蘭の諸国と和親条約を結び、続いてアメリカ総領事ハリスが下田に着任して、アメリカ及びその他の諸国と通商条約の調印を行い、遂に220年に及ぶ鎖国を終結した。

日本を巡る国際情勢が急展開する中、かねてから幕府が医学講師に招聘していたオランダ海軍二等軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトが長崎に着任した(1857)。その時ポンペ28才、彼が行った医学教育は、それまでの出島の蘭学塾と異なり、基礎医学から臨床医学に亘る分野のカリキュラムに基づいた系統的な教育であった。そして医学教育には必ず臨床実習の場が必要であることを幕府に説得し、長崎に洋式病院を建てさせた。
長崎養生所」である。養生所は明治2年に長崎医学校になり、後に長崎大学医学部に発展した。又、大阪に於ける緒方洪庵の適々斉塾(1838)、千葉・佐倉に於ける順天堂(現、東京お茶の水順天堂病院・1839)等々から幕末から明治維新にかけて日本の政治や医学を大きくリードする人材が多数に輩出した。


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(註15)沙列布(サレップ)
ハクサンチドリ、サイハイラン等のらん科植物の球根を乾燥したもの。煎剤として胃カタル等に用いる。

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