日本医事史 抄

江戸時代

 日本では17世紀に入って関ヶ原の戦いに勝利を収めた徳川家康が、400年以上も続いた戦国時代の幕を閉じ、江戸幕府を開いて天下泰平を成しとげた。江戸時代(1603−1867)は、庶民の時代と評価されるほど多彩に新しい庶民文化が開花した。江戸幕府は少数の武家集団を支配階層とし、多数の百姓や町民を被支配階層とする社会の二重構造を作り、秀吉の「身分固定令」(1591)を踏襲して、侍と百姓・町民の間で身分が異動することを禁じた。そして学門、特に儒教を奨励し、武士道や道徳や倫理の高揚を第一義として国を治めた。この様な情勢の中で人々は、封建社会に於ける身分の桎梏を脱する為に、祿を難れた武士、家督を継げない二・三男、又、町人の中からも、身分的拘束のない医師を目指す者が多数に現れるようになった。 photo5

律令制が崩壊して、誰でも自由に医業を行うことが出来、名前が上るとお抱え医師として大名の祿にもつけた医師の職業は、それらの人々にとって恰好の世に出る手段であった。それらの医師の中にはわが国の医療を支えた人物も居たが、いい加減な儲け医者の類も少くなかった。

 先に述べた如くフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来たのは16世紀の半ばである。
その後ポルトガル、イギリス、オランダ等の国々が、キリスト教の布教と、交易と、殖民地開拓とを目的にして来航する様になった。

幕府は日本の封建制度社会に、キリスト教の自由と平等の思想が入りこむことを好ましく思わないし、又、貿易の利益を幕府で独占しようと考えていた。そこで岡本大八事件(1612)や、天草・島原の乱(1636)に口実をもうけてキリスト教の禁止と鎖国を断行した。幕府はオランダとシナ以外の国々の入国を禁じ、長崎に出島を設けて、オランダの商館を置き、出島をわが国が外国に向って開いた交易の唯一の窓口にした。それによって幕府は貿易を独占し、キリスト教の布教を防ぐ目的を達したが、世界から孤立し、世界の情報はオランダを通じてしか得られなくなった。出島のオランダ商館には、商館長(甲必丹(カピタン))、館員、通訳、医師が住み、甲必丹の交替時に江戸参府の旅をする以外には出島の外に出ることが許されなかった。併し、蘭学を志す日本の若者達が続々と長崎を訪れるようになった為に、出島の外に蘭学塾を設けて通詞や蘭館医らが、オランダ語や蘭方を教えるようになった。

 新時代の学問として蘭方の人気が高まるにつれ、沈帯する漢方に新風を吹きこもうとする漢方医の一派が現れた。「古医方」と呼ばれる一派である。彼等は古来の李朱医学の観念論に飽きたりず、漢方の原点と目されている実践的学問の「傷寒論」に戻るべきであると主唱する。「古医方」を代表する山脇東洋は、日本で始めて人体解剖に挑んだ(1754)進歩派の漢方医である。東洋その時50才、かねてから解剖学に志をもち、古来の五臓六腑の真否を人体解剖を行って正したいと願っていた。当時は「身体髪膚これを父母に享(う)く・・・・・・」という儒教の訓えによって人体解剖は人道に背く行いとされていた。その様な時代に、京都所司代酒井忠用(ただもち)が東洋の願いを容れて刑死解剖の公許を与えたことは、日本の医学史上に残る画期的な大英断であった。解剖の結果は、五臓六腑の虚構が実証されて人々の漢方ばなれを促すことになった。

それに追い打ちをかけたのが、杉田玄白前野良沢中川淳庵らによる「解体新書」(1774)の出版である。杉田玄白は若狭小浜藩の蘭方医、前野良沢は豊前(福岡)中津藩々医で蘭方を青木昆陽に学ぶ。中川淳庵は江戸の生れ、山形藩安富寄碩に蘭学を学んだ。彼等は明和8年(1771)3月4日、江戸小塚原刑場で刑死体の解剖を見学した。その時彼等が持参していた参考書の図鑑(ターヘル・アナトミア)と解剖の所見とが完全に一致している事に驚嘆し、「苟(いやし)くも医術を以て主君に仕える身でありながら、人体の構造も知らずにいた事は面白なき次第なりと語り合って、ターヘル・アナトミアを翻訳して世に出そうと誓い合った。時に玄白38才、良沢48才、淳庵32才、江戸の甲必丹客館に通って蘭学を学びながら4年の歳月を費してターヘル・アナトミアの邦訳「解体新書」(1774)を完成した。爾来、玄白、良沢に師事する者、漢方から蘭学に転ずる者等が続出して、蘭方志向に拍車をかけることになった。

その一人である大槻玄沢は仙台藩侍医、玄白と良沢の一字づつを合わせて玄沢と名乗る程の入れ込みで、蘭学の振興に情熱を燃やして江戸に私塾「芝蘭堂」を開いた(1781)。日本に於ける蘭学塾の始まりで、18−19世紀の日本の医学を動かした人材を多数に輩出した。大阪の橋本宗吉はその一人で、傘屋の絞書き職人から志を立て、江戸に出て大槻玄沢に蘭方を学んだ。オランダ語を4ヶ月で4万語暗記した程の努力家で、帰阪して医業を開き、又、多くの門人を育て、大阪の蘭方医の祖と称えられた。橋本宗吉の弟子、伏屋素狄(ふせやそてき)は河内日置荘(ひきのしょう)の郷士で、実証主義の大切さを悟り、漢方から蘭学に転じた。素狄は動物の腎動脈に墨汁を注入して動脈を閉じ、腎臓を圧迫すると、尿管から澄んだ水が出てくることを実験して、腎臓には尿を瀘過する機能があることを発見した。ボーマンの瀘過説(1842)より38年も以前のことである。



(目次)