日本医事史 抄

室町時代

室町時代 天文18年(1549)、耶蘇会の宣教師フランシスコ・ザビエルが布教のために鹿児島に上陸した。宗教革命によって失った旧教流布の新天地を東洋に求めて日本へ来たのである。薩摩藩主島津高久の許しを得て、布教活動を行い、その足跡は平戸、山口、堺、京都にまで及んだ。彼は2年3ヶ月の短い滞在で日本を去り、インドに向ったが、ザビエル以後も多くの宣教師が来日し、キリスト教の布教や、交易や、文化の交流等の役割を果した。又、彼等に同行して来た医師達は、布教の為に神への奉仕として医療活動を無償で行い、西洋医学の普及に功を成した。 photo4

1553年に来日したポルトガルの宣教師ルイ・アルメイダは、彼自身が外科医でもあり、豊後(ぶんご)(大分)の領主大友宗麟の庇護をうけて日本で初めての洋式病院を府内(ふない)に開いた(1559)。漢方と加持祈祷しか知らない当時の人々にとって西洋の科学的な治療は生れて始めて目にする驚異の出来事で、遠く京大阪方面からも患者が集まった。 その当時の日本の医学を代表する学者に、田代三喜(たしろさんき)(1465−1537)と、曲直瀬道三(まなせどうさん)(1507−74)の名が高い。

田代三喜は武蔵の国に生まれ、少時僧籍に入り、医学を足利学校に学び、23才で明に渡って李朱医学を修めた。帰国して関東官領足利成氏に招かれ、下總国(しもふさのくに)(千葉)古河で医療を行い名声を博した。

曲直瀬道三は京都に生れ、少時僧籍に入り、22才で足利学校に学んだ。田代三喜に師事し、李朱医学を修めた。京都に帰って医療に専念し、医学舎「啓迪(けいてき)院」を開いて後進の育成に努め、日本医学中興の祖として名を成した。彼等が修めた李朱医学は、元の医学者李東垣と朱丹溪の学説で、儒教の陰陽五行に、宋の頃の五薀六気や五臓六腑等の思考を組み合わせたもので、儒教で説く宇宙の原理に対して、人体の生理や病気を小宇宙にみたてた観念論である。

 日本の医学がこの様に果てしなく古代の瞑想論の中に埋もれているのに対して16世紀のヨーロッパでは、ルネッサンスの波が医学の分野にもうちよせ、人体をあるがままの姿で捉えようとする実証科学の研究が勃興した。ベルギーのヴェサリウスは剖検所見を極めて現実的なアトラスに纒めて、金科玉条とされてきたガレヌスの学説を覆した。フランスのアンブロアス・パレーは、動脈を結紮して四肢を切断する手術に成功し、外科の領域に新時代の扉を開いた。

 17世紀の最も著名な業績は、イギリス人ウイリアム・ハーヴェイ(1578−1657)による血液循環の発見である。続いてイタリアのガスパル・アセリ(1581−1626)が淋巴管を発見し、二人の業績によって生体の循環系の実態が解明されるに至った。17世紀の後半には、オランダのレウエンフーク、スワンメルダム、イタリーのマルピギ等が顕微鏡を用い、細胞学病理学の分野に多くの新知見をあげている。

 18−19世紀のヨーロッパは産業革命が起り、産業技術が進んで、手工業から機械工業の時代に移っていった。医学の分野では、オランダのスウィーテンナーによる打診法、フランスのラエンネックによる聴診法の開発、イギリス人ジェンナーによる牛痘種痘法の成功(1796)、ウインザーリングのジギタリスの臨床応用等々、臨床医家による研究業績が注目を集めた。



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