扨、医師会の発祥であるが、大正14年3月31日発行の内務省衛生局資料によると、
「医師会並に医学会の起源は明治8年、松山棟庵、佐々木東洋、佐藤尚中、石黒忠悳(ただのり)、三宅秀、隈川宗悦等数十名の発起に由りて成立せる"医学会社"なるべし。次で明治15年、高木兼寛、松山棟庵等の"成医会"及び田口和美(かずよし)、樫村清徳等の"興医会"が起り、明治16年に佐野常民、長与専斉、高木兼寛、長谷川泰、後藤新平等が"大日本私立衛生会(註17)"を、明治19年には北里柴三郎が"東京医会"を設立した。その後、明治39年5月2日に"医師法"が発布されて法定の府県郡市区医師会が誕生し、更に大正12年3月に至って医師法が改正され、法定の日本医師会が設立した」
と記されている。
又、大阪に於いても、明治10年に緒方惟準が"医事合同社"(会員192名)を、明治13年に町田天梁が"堺医事共同社"を、明治16年には吉田顕三が"大阪興医学社"(会員162名)を設立している。
これらは何れも、明治になって洋方医が増えるに伴って互に団結をし、研修や情報交換等を目的に設立された洋方医による任意の業種団体である。それらの医会設立者の顔ぶれの中には、医師であって軍医總監、満鉄総裁、日本赤十字社長、医学会々頭、内務省衛生局長、軍医本部長等々、錚々たる人物が名を連ねており、国を挙げ新国家建設に取り組んだ明治維新の国民の気魄がそこにも感じられるのである。
明治の文明開化の波に乗って西洋医学が勃興し、漢方は明治28年の帝国議会に於て漢方医学存続法案が否決されて、漢方では医師免許を獲る事が出来ないことが決った。それに至るまでに漢方と蘭方は、いろいろの所で歴史に対立の跡を残している。
ユーモラスな話の一つ二つを拾ってみよう。
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