日本医事史 抄

飛鳥時代

6世紀に入ると日本は、隋や唐と国交を持つ様になった。推古天皇16年(608)、最初の 遣隋使 小野妹子に医学留学生として随行した惠日と福因が、勉学の成果を携えて帰国したことは、閉ざされた島国日本に大きな衝撃を与えたに違いない。四天王寺や法隆寺創建の頃である。隋が滅び、唐が興ると舒明天皇2年に最初の 遣唐使 (630)が派遣された。

遣唐使の派遣は、唐の滅亡までの270年間に13回を算えたが、海図も気象情報もない時代に漂流や難破の危険にも怯まず、千里の海に木船を漕ぎ出した人々の国造りの情熱にはただただ感服するのみである。遣唐使により日本は、悠久の中国文化を吸収し、大国唐に集まる世界の情報を知ることが出来た。就中、画期的な出来事は、文武天皇の大宝元年(701)に唐の律令制に習って 大宝律令 を定めた事である。日本はそれによって初めて法治国家の形を整えることが出来たのである。大宝律令の中に日本で最初の医療制度に当る 「医疾令」 が定められた。
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即ち、医師の養成は、13〜16才の医師の子弟を医学生に選び、定員40名、修学期間は内科・鍼灸7年、外・児科5年、耳・目・歯4年、按摩・呪い3年、毎年厳しい試験を行い、9年で卒業出来ない者は退学させた。

卒業生は医官に任じ、従八位の官位と禄を与え、中央や地方の行政機関に配属して医療に従事させた。中央官庁は宮内省の典薬寮(くすりのつかさ)で、典薬頭(くすりのかみ)の下に医博士(くすりのはかせ)、医師(くすし)、医生(いしょう)を置いた。典薬寮は江戸幕府の終わりまでその形が残されていた。

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