日本医事史 抄

明治時代

 同年12月7日、医学振興に関する「太政官布告」を発布する。

「医師の義、人之性命に関係し、実に容易ならざる職に候。然るに近世、不学無術の徒、猥りに方薬を弄し、生命を誤る者少なからず、聖朝仁慈のご趣旨に背き、甚だ以って相済まざる事に候。 今般医学所お取り立て相成り候については、規則を設け、学の成否、術の功拙を篤と試して免許を得た者でなければ医業を行う事が許されなくなるから、その様に覚悟して益々学術に励むべき事」
という政府の厳しい方針を示したものである。


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それまでは、誰でも自由に医業を開くことが出来たので、碌に勉強もしないでいい加減な施術をしたり、薬を売りつけたりするインチキ医者が現れて世間の頻蹙(ひんしゅく)を買っていた。太政官布告はこの様な旧弊を正し、新政府の施政をアピールする為に布告を発したものである。
併し、当時はまだ医師の主力を占めるのは漢方医で、洋方医の数が少く、開業免許試験を受ける該当者が不足していた。そこで政府は、明治2〜4年に亘って医学教育態勢を整える為に、長崎精得館を長崎大学に、東京大を医学校兼病院に、大阪に仮病院及び医学校を設ける等して準備を整え、明治7年に至って「医制」を定め、東京、大阪、京都の3府に通達した。

「医制」はわが国の医師法と医療制度の根源をなすもので、總則、医学校令、教員並外国教員職制、医師の開業制度、産婆、鍼灸、薬舗及売薬規定の76ヶ条より成り、明治39年に「医師法」が規定する迄の間、医師の身分について法的根據を付与していたものである。

医師の開業免許は、医制の第37条に規定し「医学校の卒業証書及び内科、外科、眼科、産科等専門の科目を2ヶ年以上修得した証書の所持者を対象に試験を行い、その合格者に免許を与える」とした。
明治7年頃はまだ漢方医8人に対し洋方医2人の割合で受験該当者が少なく、当分の間は既開業者に仮免許を与えることで混乱を回避した。その後、東京、大阪、京都以外の県でも開業試験を実施する様になり、明治11年来の開業試験合格者は1811名に達する程になった。

 又、医制の第41条に「医師たる者は、自ら薬を鬻(ひさ)ぐ(売る)ことを禁ず、医師は処方書を病家に附与し、相当の診察料を受くべし」との条文を掲げた。これが医師会と薬剤師会との間に今も尚綿々と続いている医薬分業の抗争の起点である。
本来医の道は、貧者に薬を与えることを本旨とするが、何時の頃からか薬で暴利を貧る悪徳医師がはびこる様になった。「医制」の起草者・長与専斉(註16)は比の弊風を除く為に、医制の第41条に、欧州の医療制度を倣った医薬分業の理念をとり入れたのであるが、その当時は薬剤師の側に分業に対する態勢が整っておらず、又、患者の側も医師以外から薬を受けとることに関心を示さなかった為に、「医薬分業はわが国の国情に合わない猿真似」と医師の起草者である長与自らが述懐する様な結果に終った。

その後、飽迄分業実現を目指す薬剤師会と、現状維持を守る医師会とが各々激しい政治活動を展開して延々今日に及んでいる。
大阪府医師会に於ても昭和29年に「医薬分業対策委員会」が設置され、南区医師会から大島会長の父君・大島時雄先生と政山副会長の父君・政山龍隣先生のお二人が選ばれて委員になり、国会陳情等に奔走された記録が残っている。

現在、時を経て再び、「薬漬け」や「薬価差」を口実に、医薬分業の火の手が激しさを増している。「物と技術の分離」という理屈の前に医師会の声もトーンダウンしがちであるが、医薬分業が実現すると一番迷惑を蒙るのは患者である。患者にとって「くすり」は、命をあずけた主治医との間の心と心とを繋ぐ繋け橋であって、単なる品ものではない筈である。日本医師会坪井会長が敢然と「院内薬局を調剤薬局に」する法改正を提案していることは、医療の現場を代表する者の見識であり、明治以来、医薬分業に反対を貫いてきた医師会人の気骨というべきであろう。


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(註16)長与専斉(1838〜1902)
備前大村藩医長与中庵の子、1854大阪の適塾、−61長崎でポンペに学ぶ、−68長崎医学校々長、−71文部省に入り遣欧使節団に加わり、医療を視察、文部省医務局長、東京大学々長、内務省衛生局を歴任、医学者・長与又郎、作家・長与善郎は専斉の子である。

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