日本医事史 抄

江戸時代

 「古医方」に対して、漢方と蘭方の夫々の長所を併せて新しい見知を見出そうとする「漢蘭折衷派」の人達がいた。紀伊藩医外科の華岡青州達である。

青州は古医方を吉益南涯に、蘭方を大和見立に学び、自らは20年の歳月をかけて「通仙散」(マンダラゲとトリカブト)と称する麻酔剤の調合を完成し、それを用いて乳癌の手術を成功させた(1805)。麻酔剤の効果を母と妻に試しに用いて、妻加恵が失明した物語は今も人々に語り継がれている。
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蘭方に追い風の中で、漢方を日本の医学の主流として伝統を守ってきたのが夛紀氏の「考証派」である。夛紀氏は「医心方」の作者、丹波康頼の後裔で、18世紀始めに京都から江戸に移り、幕府に仕えて姓を夛紀に改めた。
夛紀元孝は将軍吉宗の信任を得て医学塾「躋寿館(せいじゅかん)」を開き(1765)漢方医の育成に当った。幕府は躋寿館を官設の「医学館」とし(1791)、館長を夛紀氏の世襲にした。斯くして医学館は、進出著しい蘭方に対する漢方巻き返しの拠点として期待されたが、考証派の学問は科学性に欠ける為に医学館は後に明治新政府に接収され、廃絶する。
江戸の蘭方医達は医学館に対抗する為に神田お玉ヶ池種痘所を構え、蘭方進出の拠点にした。幕府はこれを直轄とし、「医学所」と改称した。それによって漢方の医学館と、蘭方の医学所とが幕府公認として互に、明治に至るまで鎬(しのぎ)を削ることになったのである。

1823年、出島の蘭商館医師にフランツ・シーボルトが着任した。シーボルトは出島に着いて真先に種痘を行った。併し、持参の牛痘苗では成功せず、痘苗を新たに取りよせて試みても悉く失敗した。シーボルトに続いて出島に来た館医のリシュール(1839)や、モーニッケ(1848)も持参の牛痘苗を接種したがすべて失敗に帰した。
日本までの20日余に及ぶ長い航海で痘苗が腐敗するのである。

佐賀藩医楢林宗建は、痘漿ではなく、痘痂(痘瘡牛の皮のかさぶた)を用いることを提言し、オランダ領バタビアから届いた牛痘痂を息子の建三郎にモーニッケが接種を行って遂に善感させることに成功した。
ジエンナーから50年を経て漸く日本に種痘の花が咲いたのである。それから150年後にWHOが、地球に於ける「天然痘の根絶宣言」(1980)を行おうとは何人も思い及ばなかったことであろう。

振り返ってみると「種痘」は、わが国に近代医学の恩恵を贈り届けた一番初めの天使である。その頃、天然痘の流行期には人々は、死を待つか、無惨な痘瘡に生涯苦しむかしか仕方なかった。それを目の当りにしながらなすすべもない医師達の苦悩の日々が続く。

そこへ種痘の技術が伝えられた。医師達にとって痘苗の入手こそ、焦眉の急務である。人々は、呪(まじな)いか、祈祷にすがるしか方法を知らない。役所は「牛の糞の黒焼きを粉にしてのむのがよい」と教える。
その様な時代に、世の頑迷と敵意と戦い、私財を抛(なげう)って種痘の実施をなしとげたパイオニアの物語りが沢山ある。
私は、その中の一人である笠原良策について書いておきたいと思う。



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