日本医事史 抄

奈良時代

奈良時代から平安中期の頃(710−1100)までは、この医疾令に従って国営医療が実施されていた。併し、平安中期になると諸国に武家が抬頭し、中央の威令が地方に及ばなくなり、律令制に翳りが生じ始めた。特に 保元・平治の乱(1156・1159)(註1,2) 以後は天皇政治の衰微と共に律令制も崩壊し、禄を失った官医が巷に出て自ら生計をたてる様になった。日本の 開業医の発端 である。 photo2

次に日本の医療に大きな影響を与えたものに 「仏教伝来」 がある。百済より公伝(538)の仏教は、天皇家の帰依によって忽ち日本全国に広まった。特に推古天皇が「三法興隆の詔」(三法は仏・法・僧)を発布して、仏教興隆を国の政策にすることを宜する国々に寺院の建立が競って行われ、仏教は国民的宗教になる程の発展を遂げた。仏典には病気に纏(まつわ)る示説が多い。その為に僧は、看病(祈祷)や薬の知識を自然に身につけ易く、仏教の興隆と共に多くの 僧医 を輩出し、近世に至るまで僧医が日本の医療の主流を占めるようになった。

ここで少し脱線をして、 僧医道鏡 の物語を書いておきたいと思う。道鏡は河内若江の弓作り弓削氏の出で、東大寺の別当良弁(ろうべん)に梵文(ぼんぶん)(インドバラモン教の宇宙原理)を学び、葛城山に篭って呪禁(じゅごん)力(呪いによって物怪(もののけ)を追い払う術)を修めた。下級から身を起して栄達を極め、遂には没落の道を辿る道鏡のドラマは、女帝孝謙上皇との出会いに始まる。孝謙は、聖武天皇を継承して孝謙天皇に即位した(749)。聖武、光明、孝謙の親子揃って輦(れん)を連ね、貴族、官人、僧など1万余人を集めて史上に残る壮大な大仏開眼供養(752)を催す等、孝謙にとって生涯最良の日々が続いたが、父聖武の没後(756)、母光明の甥・藤原仲麻呂が政治の実権を掌握した。

孝謙は日々の孤独を託(かこ)ちつつ譲位して上皇に退く(758)。仲麻呂は「娘婿の大炊王(おおいほう)」を擁立して淳仁(じゅんにん)天皇とし、仲麻呂態勢を固めた。孤独の孝謙は気欝に閉され、遂に呪禁師として評判の高い道鏡を看病僧に迎えることになった。二人の運命の出合いである。時に孝謙45才、道鏡はそれより少し上と推定される。白壁に朱丹の柱が映え、香木をたきこめた王宮に、金襴の袈裟を纏い、朗々と経を誦む道鏡の姿は、貴族の男をしか知らない孝謙の心を怪しい焔でつつんだことであろう。

それ以後孝謙にとって道鏡は、片時も傍から離せぬ人となり、何をするにも道鏡、何処へ行くにも道鏡と影と形の如き二人になった。淳仁と仲麻呂にとってその様な二人は目障りであり、孝謙と道鏡には仲麻呂が邪魔である。その様な両者は遂に戦争を始めた。戦いはアンチ仲麻呂派を味方につけた孝謙・道鏡方が勝ち、近江に逃げた仲麻呂をびわ湖畔で妻子とも斬殺、淳仁天皇は淡路島に流され、翌年没した。23才の若さであった。勝った孝謙上皇は重祚して称徳天皇に返り咲き(764)、道鏡を大政大臣禅師にした。更に、恋しい人を皇位に近づける為にとうとう法王の位につけるに至った(766)。道鏡は又、故郷の河内を帝都に次ぐ都にすることを企てる等、二人の所業は誰憚らずエスカレートしていった。

中央政権に諂(へつら)う宇佐八幡宮の宮司習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)は「道鏡即位すれば国家安泰」との神託があったと奏上に及んだ。女帝は道鏡を皇位につけたい思いと、臣下を皇位につけることへのためらいとの間で悩んだ末、側近の尼僧法均(ほうきん)と弟の和気清麻呂に神託の確認を命じた。宇佐に赴いた清麻呂は、神託は「天日嗣(あまつひつぎ)は皇族をたてよ」とあったと奏上して女帝の怒りをうけ、和気法均は別部狭虫(わけべのさむし)、和気清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に改名され、大隈(鹿児島)に流罪になった(769)。併し、女帝没して(770)道鏡の命運も尽き、下野(しもつけ)国、安国寺の別当に左遷され、其処で寂しく生涯を閉じた。

二人の出合いから終焉まで僅か11年余の短いドラマであったが、そこに登場する支配者達の血で血を洗う権力闘争や、そのはざまに咲きこぼれる恋物語りの昔も今も変らぬ果かなさと愛しさが心に迫る。併し、僧医といわれる道鏡が、呪(まじな)いをもって女心を操(あやつ)っていたとすれば、大へん悲しい物語りである。古代の人々は罪業が病気を起し、み仏の慈悲にすがって罪業を消滅すると病気が治ると信じ、 宿曜(すくよう)の秘法(註3) 等という呪いの類に救いを求めていた。この様な迷信は延々近代にまで及び、仏教の思想や儀式が日本の医学の近代化を妨げていたことは否めないのである。

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(註1)保元の乱(1155)
崇徳上皇は近衛天皇の没後、皇子重仁親王に皇位を継承させようとしたが、上皇の異母弟・雅仁親王が即位して後白河天皇になったことから崇徳上皇と後白河天皇との間に対立が生じ、上皇側に左大臣藤原頼長と源為義が、天皇側に関白藤原忠通と源義朝・平清盛がついて、保元元年7月11日未明、天皇方が上皇方に奇襲をかけ、上皇方を潰滅した。

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(註2)平治の乱(1159)
保元の乱に買った天皇方の源義朝と平清盛が主導権を争って対立した。源義朝は御所を襲って後白河上皇と二条天皇を幽閉したが、平清盛がこれを救出して義朝軍を撃破した。義朝は東国に逃れる途中、尾張で謀殺され、その子頼朝は伊豆に流された。

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(註3)宿曜(すくよう)
占星術の一種、28宿、12宮、7曜の運行に基づき、日時・方角の吉凶や人間の運命を占うもの。インドに発祥して中国から日本に伝わり、平安時代以降盛んとなった。(日本語大辞典)

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